モンチアズールの次はセアラ州を訪ねました。セアラでは一九九六年から二〇〇一年まで「お産のヒューマニゼーション」という自然分娩のケアの改善を目的とした仕事に取り組みました。ブラジルでは、赤ちゃんを産むことを「(新しい命を)光に与える」と婉曲に表現します。その表現が素敵だと思って、プロジェクトの名前は「光のプロジェクト」としました。
このプロジェクトは、JICA の技術協力のスキームによるプロジェクトでした。私は、プロジェクトの計画の段階から専門家として何回もブラジルに派遣され、中央政府の保健省と協議を重ね、モデル地域となるセアラ州を内陸まであちこち回りました。そのプロセスにセアラ州の保健局の側からずーっと付き合ってくれたのが、一枚目の写真に写っている女性、タチーさんでした。
ブラジルは帝王切開率にして世界のトップの座を争う国として知られます。帝王切開の大部分は、医学的理由ではなく自らの「選択」によって計画的におこなわれるものです。自然分娩が復活するには助産師職の活躍が期待されますが、当時のブラジルにはそんな職種すら存在していませんでした。
他方、セアラ州の田舎には、昔の日本で「取り上げ婆さん」と呼ばれたような女性たちがいて、その女性たちを連邦大学病院がトレーニングして開いた小さな「お産の家(casa de parto)」がまだ細々と残っていました。「取り上げ婆さん」の知恵を引き継ぐことができるうちに助産師という職種を創設して、現代を生きる女性たちのニーズにこたえられる体制を作ろう! というのが、私たちが立案したプロジェクトの壮大な計画でした。日本の国も似たようなプロセスを経験したことがあるので、経験豊富な助産師さんたちにたくさん協力してもらおう! そう考えたのでした。
長い話を短く話すと、プロジェクトを始めて二年後の一九九八年には、ブラジルの連邦政府が動いて本当に助産師職が創設されることになりました。
それはちょっとした革命のような事件でした。産婦人科の医師たちの中には、今でもこの政策変更に納得できない人がたくさんいます。特にリオデジャネイロ州とサンパウロ州では、助産師が医師のいないところでお産を取り上げることに医師会ぐるみで反対していて、しばしば目立った争いが起き、訴訟にいたることもある状態が続いています。
余談ですが、私がセアラに派遣される直前に生まれた娘には「光」という名前をつけました。その光が、今はもう二十七歳です。