みんなのブログ

2020/12/28

2020年を振り返って

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2020年がたいへんな年だったことは間違いありません。2月の、コロナがまだそれほどでもなかったときにひどい風邪をひき、しかもひきはじめのときに98歳の叔母をホームに見舞いにいってうつしてしまい、かなり心配をしたりもしました。でも、私はこの一年、「注意」はしても「不安」は拒否することに努めたつもりでした。

1980年代の後半にエイズ予防の仕事に取り組みながら、自分自身がエイズ恐怖症に心を捕われて、ずいぶんともったいない時間を過ごしてしまったという思いがあるからです。

ブラジルのファヴェーラで、結構な時間をかけてエイズのもたらすメッセージの真髄に出会いました。「人生は決して先延ばしにしてはいけない。いつ終わってしまうかなんて誰も知らないんだから」というメッセージに、30代の前半で出会ったことは人生最大のプレゼントだったかもしれません。

♪いま〜、この世に命を受け〜

わらーう、泣く、歌う

一度だけの人生〜

だって〜、必ず終わってしまうから

私だけが生きる、私の

私だけの人生♪ (”É a vida”のメロディで)

そんな替え歌を作って、ことあるごとに口ずさんできました。去年も、何回かこれを心に歌いました。おかげで「2020年も、何も先延ばしにしないで、結構充実していたなあ」って思える気がします。CRIにとっては、モンチアズールへの緊急支援の活動が始まり、ブラジルの仲間とも頻繁に連絡をとる充実した年となりました。

ネットで気軽にブラジルやヨーロッパと繋がれるようになって、時差も気にせず入ってくる国際会議やミーティングに出まくりです。充実し過ぎで、ちょっと過労気味。ときどき思うんです。2月に風邪引いてたときは世界も止まっていてよかったなあ、って。コラ! 不謹慎、と自分をたしなめているところです。

2020/12/21

チャリティーヨガ 緊急食糧援助を届けました!

9月26日に開催した2回目のチャリティーヨガ。

送金準備がようやく整い(海外送金って、ほんとうに大変…!)
総額35万円をモンチアズール・コミュニティ協会へ寄付することができました。

前回は毛布1000枚を、今回は食糧援助ということで
お米や豆、スパゲッティ、油、砂糖などに加え石鹸や洗剤、歯磨き粉などをセットにした物資を140世帯分購入し、配布しました。

ヨガインストラクターで元モンチアズールのボランティアでもあるYukinaが今回も現地へ行き、配布作業に参加してきてくれました。

「ファヴェーラの中にも貧富の差があった。」

「貧困の中の、さらなる貧困。」

「貧しい家が立ち並ぶ地域であっても、電気水道ガスがある家と無い家とがはっきり線引きされていた。」

ショックはけっこう大きかったみたいです。

まだまだ支援は必要みたいです…。
そこで、次回のイベントを企画しました。

チャリティーヨガ第3弾のお知らせ!!!

年明けの2021年1月23日(土)夜8時から開催します!

ヨガがはじめて、という方も楽しめる内容ですので、ご安心を!

ぜひお誘いあわせの上、ご参加ください♡

それでは、チャリティーヨガでお会いしましょう!!!

2020/12/12

12月のアドベントの寒い朝

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登校時のスイス・バーゼルシュタイナー学校にて

今朝、娘をバーゼル市内の閑静な住宅街の丘にある学校に送りに行きました。朝7時半は氷点下であたりは真っ暗です。 アドベント(キリスト降臨節)週間が始まってから、毎朝クラスごとに入り口ホールでアドベントの合唱が行われています。 その中を沢山の小さな子どもたちが登校してきます。 うちの娘は500人ぐらいの全校生徒の中で多分数人しかいないアジア系です。 でもそこにはそのアジア系を差別する空気は感じません。寒くて暗い朝のホールにはキャンドルの灯りとともに子どもたちの歌声が響き、神聖とも感じる空気で満たされています。

子ども一人一人の教育は親が中心であることは間違いありません。しかし人種差別的な意識が薄い、シュタイナー学校にあえて子どもを送る親たちが集まる学校、人間的・精神的教育を目指している学校があるということは、この社会に大きな希望を紡ぐのではないかと感じました。

だから、シュタイナー教育という一つの世界が百年前の出来た当時に留まっては行けないと思うのです。このシュタイナー教育という、世界に根付いた大きな可能性を時代に合わせた人間教育に改善していかないと、現代の政治、経済勢力に飲み込まれていってしまう、その時この無垢の子どもたちは知らず知らずに現代システムの型に組み込まれていってしまう。 今朝、子どもたちの顔をみながら合唱を聞いていて感傷的に想い耽ていました。

2020/12/11

インターセクショナリティという考え方

“Intersectionality” という概念があります。「交差性」と訳されることもあります。「人種・性別・性的指向など、個人の特性が複数組み合わさることによって起こる特有の差別抑圧(や逆に特権も)を理解するための枠組み」と言えると思います。

黒人・女性や黒人・トランス女性への特別な差別抑圧がよく例として挙げられます。日本に置き換えて言うと、外国人児童生徒の学習障害を理解するときに必要な考え方ではないでしょうか。

全国の公立小学校では、外国籍の子どもが特別支援学級に通う率が日本人の子どもの2倍ほどであることが問題となっています。中川郷子さんによると「実態を調べるために、特別支援学級にいた日系人の子どもたちに、日本語とポルトガル語がわかる私が知能検査などを行いました。すると、発達障害の疑いがない子が半数ほどいた」とのことです。

外国にルーツがあることからくる異なった発達のニーズが、何らかの学習困難と混同されてそいういうことになっているという指摘かと思います。

「混同」という見方もできるけれど、外国籍・学習困難という異なった特性が「交差」して、独特の差別抑圧を受けていると見ることもできると思います。

2020/12/5

二十歳の頃の話をしろと学生に言われて…

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私の教えている学部の学生から(シェアしたポストのように)リクエストがきました。二十歳のときの自分について本を出せと。

私は二十歳まではかなり平凡に生きていたと思います。大学のバレー部に入って、バレーボールの練習と、そのあとの夕食+ビールと、麻雀、そして終電という日々でした。

ところが21歳で交通事故に遭ってバレー部をやめて、新しい人生が始まりました。

学生(黒木さん)がシェアしている雑誌はポパイですが、懐かしいなあ。その雑誌でモデルをすることになって、それがきっかけで英語を喋る友達がたくさんできました。

それからは、いつもジーパンの後ろのポケットにコンサイスの英和和英辞書を入れて歩くようになりました。テレビを見る暇があったらNHKの語学講座を探しました。ほとんど聞き取れなかった英語の授業がわかるようになり、自分の脳の中に「英語脳」が生まれていくのを感じました。

英語を話すようになって顔つきが変わったと言われます。よく、ボリビア人やその他の国の人と間違えられるようになりました。上手に発音しようとして頑張っているうちに、顔の筋肉のつき方が変わったんだと思います。

みんな、21歳のときに起きた変化でした。

24歳でアメリカに留学、27歳でポルトガル語のブラジル(モンチアズール)へ、40歳のときにはボリビアで3ヶ月過ごしてスペイン語も少しできるようになりました。

今の私の頭の中では、3ヶ国語半の脳が仲良く働いています。あれから40年近く、刺激的な人生でした。15年前に日本に帰ってきてからも、「世界」は自分の頭の中にあるので、いつも一日中世界旅行をしているような気分です。

それらの言語の習得に、ちょっとずつ恋愛が絡んでいたことも告白します。そのお話は無料では出せないので、いつかまた。

2020/12/2

Wedding with Angela?

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Last night, I had a strange dream. I was marrying Angela Gehrke at a Hawaiian church. She looked young, much younger than how she was when she died.

Both she and I knew what was happening. For she had died anyway, she could look any way she wished. So she chose the age she liked, 28. Now to come to think of it, it was the year when she arrived in Monte Azul Community Association from Germany.

Angela worked as a midwife, when there was no recognition for such a professional category in Brazil. In other words, she was a clandestine professional as she assisted the births of so many babies in the favela.

She continued anyway. At points she did not have a proper visa to stay in Brazil either. A clandestine midwife in a clandestine village…

My own child was born in her house under her care. It was a holiday for the City of São Paulo. When we went to Angela’s house to pick her up, she casually asked, “Why don’t you give birth here at my house?” She was busy making plum jelly that day. We were the first couple to give birth at her cozy house in Campo Limpo.

That was the life-changing experience of my life. I will never forget the dim light, the sound of the water in the shower room, the smell from the kitchen… I probably cried louder than my daughter when she finally came to light.

The nursing association became annoyed by her practice and came to the favela to close the clinic. Mothers, professionals and media that loved, respected and supported her work went crazy. People mobilized to resuscitate her work.

In a matter of a few years, the Brazilian Ministry of Health decided to recognize midwifery as a formal profession. She went to Rio to get that diploma, by teaching at a college of nursing instead of being a student.

Angela received the diploma, was about to reopen her birthing house, then was diagnosed with cancer. She died in only half a year or so. She was only 43.

It has been 20 years since her parting. The year when she parted, we held an international conference on the humanization of childbirth in Fortaleza. The first of so many others to come. We gave her a humanization of childbirth award posthumously.

With midwifery profession newly recognized by the government, and new midwifery courses and birthing houses being open all over Brazil, the movement for the humanization grew.

So, a happy 20 years anniversary! To Angela and to the humanization conference!