セクシュアリティの授業をしていると、ああ、自分もお産を体験してみたかったなあ、と思うことがあります。
いや正直を言うと、若いときの自分は、お産なんて、そんな命がけの極限体験をする勇気がないと思っていました。それが、性教育を職業としていろいろ勉強しているうちに、神秘的というか、この奇跡のような体験を一度はやってみたいと思うようになりました。
胎児の頭が骨盤にうまく入るようにと腰を振ったり、明かりを落とした部屋で何かにしがみついて声を絞り出したり、児頭が膣口から出たところで止まっているのに手を当ててみたり…。
お産だけではありません。生理もそう。
排卵のときに卵巣から卵子が飛び出すのを感じる人がいるんだと聞けば、へー、自分だったらそんなことを感じる力があるのかな、と思い。布ナプキンを使うと自分の生理の血を「ゴミ」じゃなくて「からだからのメッセージ」と感じるようになると聞けば、よし、やってみたいものだ、と思い…。
ずいぶんと無駄に、不可能なファンタジーを描いたりしてきました。
そんな年月を重ねるうちに、いつか50歳を過ぎ、今年はなんと61歳。どんな女性もこの歳になったらお産も生理も無理だよなあ、自分の人生では叶わない夢だったなあ、と思います。
そういう思いを、授業の中で冗談ともつかず、本気ともつかず話すことがありますが、高校生や大学生から言われます。「でもさ、先生だってやっぱ嫌だと思うよ。本当に生理が来るようになったら」と。
自分には訪れようもなかった生理を毎月体験して、ときには命がけで赤ちゃんを産む人たちがいます。きっとたいへんなんだろうな。不安や痛みもあるだろうし、それを体験しない人と比べたら、どんなにか影響を受けるんだろうな。
でも、その人たちがそれをやっておいてくれるから、人類はこれまで存続してきたし、これからもそのことは変わらないんだろうと思います。
だったら、生理やお産を体験しない側としては、できるだけの負担を負うようにしないといけないんじゃないでしょうか。お産や子育ての経済的・時間的・機会的コストを社会が負担するのはもちろん、生理用品だって無料であるのが当たり前なんじゃないでしょうか。
せめて、人類が存続していく仕組みについて、誰も彼もが知っていないといけないんじゃないでしょうか。 (FBより転載)