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2024/5/19

4年ぶりのブラジルへの旅(その4: 「お産のヒューマニゼーション」運動の仲間たち-リオとブラジリア)

「お産のヒューマニゼーション」という呼び名は、たぶん一九九〇年代の初頭に生まれた言い方です。帝王切開率が世界で一番高くなり、自然(経膣)分娩もどんどん医療介入を受けるようになっていくことに問題意識を持った医療者たちが、ReHuNa(Rede pela Humanização do Parto e Nascimento =出産と出生のヒューマニゼーションネットワーク)という団体を一九九三年に立ち上げました。アンジェラさんの助産所が閉鎖されそうになったとき、メディアに声をかけるなどして応援してくれたのもReHuNa でした。

二〇〇〇年代、「お産のヒューマニゼーション」という言葉は、あっという間にブラジル中に広がりました。今日、「人間化されたお産(parto humanizado)」は、誰もが知るお茶の間(?)用語になったと言えるでしょう。その言葉からは、自由な姿勢で家族に囲まれて赤ちゃんを産む女性の姿がイメージされるようです。このキーワードで画像検索をかけてみてください。お産のドラマを切り取った写真がたくさん見つかることと思います。

あれから二〇年以上がたち、お産のヒューマニゼーションを支える公的体制も整備されてきました。マルコスさんのいるリオデジャネイロでは、八つある市立病院のすべてに「院内助産施設」が置かれ、経腟分娩の過半数が医師ではなく産科看護師に介助されているそうです。お産に家族を同伴する権利は二〇〇五年に法律で認められました。ドゥーラ(妊娠・出産・産後を伴走する人)を同伴する権利についても、連邦議会でちょうど議論されているところです。

今回の旅ではリオデジャネイロとブラジリアに寄って、お産のヒューマニゼーション運動を牽引してきた古くからの友人たちに会って、その後のブラジルの話を聞いてきました。『くりあんさブラジル通信(99号」)では、彼らのことを写真で紹介しています。アーカイブが下のリンクから見れるので、ぜひご覧になってください。

くりあんさブラジル通信

2024/5/19

4年ぶりのブラジルへの旅(その3: モンチアズールと「お産のヒューマニゼーション」運動)

ここに引っ張り出してきたのは、二〇〇〇年に亡くなったモンチアズールの助産師アンジェラさんの古い写真です。

彼女に付き添ってもらうお産はそれは素晴らしい体験で、ファヴェーラばかりでなく、富裕階層の家族もしばしば彼女にお産に立ち会ってもらっていました。私の次女も彼女の自宅で生まれました。そのときの体験は父親の私の人生を変えてしまうようなものでした。

しかし、アンジェラさんの活動が人に知られるようになったことが、結局、彼女の助産所の閉鎖という結果をもたらすことにもなりました。

当時のブラジルには助産師という職種も資格もなく、ドイツで取った資格でお産を取り上げていたアンジェラさんは、サンパウロ州の看護師会によって助産所を閉鎖させられてしまったのでした(一九九七年)。そのプロセスで「こんな素晴らしいお産をさせてくれる人は他にないのに!」との声が巻き上がり、「お産のヒューマニゼーション」という運動にメディアを巻き込むことに繋がりました。

モンチアズールは、アンジェラさんの死後、何年もかけて助産所を再開することができました。今はサンパウロ市の公的資金で運営され、たくさんの助産師がたくさんの家族のお産と産後のケアをしています。助産師だけで(医師なしで)お産を取り上げる施設を、ブラジルでは正常分娩センターといい、別名、セアラ州に倣って「お産の家」といいます。

写真のヴィウマ・ニシさんは、モンチアズールの助産所が再開されたときの中心的メンバーでした。私の長女(タイナ)はカンピーナスの自宅で娘(クラリセ)を産んだのですが、ヴィウマさんは車で二時間離れたサンパウロから駆けつけてくれました。写真は、タイナとクラリセと一緒にヴィウマさんの家を訪ねたときのものです。

2024/5/19

4年ぶりのブラジルへの旅(その2: 「お産のヒューマニゼーション」プロジェクト-セアラ州)

モンチアズールの次はセアラ州を訪ねました。セアラでは一九九六年から二〇〇一年まで「お産のヒューマニゼーション」という自然分娩のケアの改善を目的とした仕事に取り組みました。ブラジルでは、赤ちゃんを産むことを「(新しい命を)光に与える」と婉曲に表現します。その表現が素敵だと思って、プロジェクトの名前は「光のプロジェクト」としました。

このプロジェクトは、JICA の技術協力のスキームによるプロジェクトでした。私は、プロジェクトの計画の段階から専門家として何回もブラジルに派遣され、中央政府の保健省と協議を重ね、モデル地域となるセアラ州を内陸まであちこち回りました。そのプロセスにセアラ州の保健局の側からずーっと付き合ってくれたのが、一枚目の写真に写っている女性、タチーさんでした。

ブラジルは帝王切開率にして世界のトップの座を争う国として知られます。帝王切開の大部分は、医学的理由ではなく自らの「選択」によって計画的におこなわれるものです。自然分娩が復活するには助産師職の活躍が期待されますが、当時のブラジルにはそんな職種すら存在していませんでした。

他方、セアラ州の田舎には、昔の日本で「取り上げ婆さん」と呼ばれたような女性たちがいて、その女性たちを連邦大学病院がトレーニングして開いた小さな「お産の家(casa de parto)」がまだ細々と残っていました。「取り上げ婆さん」の知恵を引き継ぐことができるうちに助産師という職種を創設して、現代を生きる女性たちのニーズにこたえられる体制を作ろう! というのが、私たちが立案したプロジェクトの壮大な計画でした。日本の国も似たようなプロセスを経験したことがあるので、経験豊富な助産師さんたちにたくさん協力してもらおう! そう考えたのでした。

長い話を短く話すと、プロジェクトを始めて二年後の一九九八年には、ブラジルの連邦政府が動いて本当に助産師職が創設されることになりました。

それはちょっとした革命のような事件でした。産婦人科の医師たちの中には、今でもこの政策変更に納得できない人がたくさんいます。特にリオデジャネイロ州とサンパウロ州では、助産師が医師のいないところでお産を取り上げることに医師会ぐるみで反対していて、しばしば目立った争いが起き、訴訟にいたることもある状態が続いています。

余談ですが、私がセアラに派遣される直前に生まれた娘には「光」という名前をつけました。その光が、今はもう二十七歳です。